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かつては阿賀野川の本流だったので、地元では“古阿賀”(ふるあが)とも呼ばれています。
					
横断する二つの橋によって上流から上池、中池、下池に分かれています。
 
				いつ三日月湖(河跡湖)になったのか、はっきりわかりませんが、
					
「1722年(享保7年)に阿賀野市法柳新田から灰塚まで畑を押し切って直線的な本流になった」という資料や享保9年頃のものといわれる絵図に、新しい本流と十二潟を隔てる堤防が描かれていることから、そのころ三日月湖になったと考えられます。
					
十二潟は暴れ川だった阿賀野川の乱流蛇行時の面影を今に伝える最後の三日月湖です。
					
(右図は1697年の阿賀野川の流れ 聖籠町二宮家所蔵)
 
				かつての潟幅は、48間(約87m)もあったと言われ、対岸への往来は、両岸に張った網をたぐりながら渡る「たぐり舟」を使っていましたが、突風が吹くと舟が転覆し犠牲者が絶えなかったので1938年(昭和13年)に近所の人々が協力し合って橋を架けました。
					
昭和35年頃までは、泳いだり、ヒシ採りをしたりと子供達の遊び場で、中学生くらいになると、潟に罠を仕掛け魚を採って食べていました。
					
また、消火栓が無いときには、防火用水としても使用できました。
					
現在も十二潟の水を農業用水として利用し、ため池的な機能も有しています。
					
十二潟は昔も今も人々の生活に欠かせないのです。